羽田の鳥居

終戦直後の昭和20年9月21日、進駐軍はこの付近に軍用飛行場を建設するとして、住民に48時間以内に退去するよう命じた。
この時、穴守神社本体は現在地に引っ越し、鳥居も多数米軍の手により破壊されたが、なぜか参道の三の鳥居だけが旧地に取り残された。

というのもこの鳥居の撤去の際に不幸な出来事が続いたためであった。

第2次大戦後、GHQはこの付近に軍用飛行場を建設するとして、住民へは退去を命じ、鳥居は次々と取り壊されていった。

しかし、参道の三の鳥居の取り壊し作業の時、この鳥居を動かそうとした作業担当者が、怪我をしたり死亡したりする事態が起きたという。
何人もけが人が出たためマッカーサー(GHQ最高司令官)も手がだせなかったと言われている。


空港が日本に返還されてからも撤去しようとするたびに事故や災難が相次ぎ、いつしか、ある種の羽田名物としてここに定着している。

その後も、羽田空港駐車場の中に立ち続けていたが、空港拡張工事のB滑走路計画に伴い、移設計画が持ち上がり、1998年12月、撤去・移設せざるを得ないという決断が下る。

1999年2月にお祓いを済ませた上、800メートルほど移動させ、現在の位置に安置されている。

現在は「平和」の文字の大看板が掛けられおり、世界に平和を唱える大鳥居として建っているのである。